えぐしろ日記

剛さんが大好きみたい。( ・ω・ )/剛さんのお芝居情報には、尋常でない喰いつき方をします。

【本】『仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解』

仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 (中公新書)
 でもさ、そもそも「仏教」って一言に言うけれども、本来の仏教ってどんなだったの?
 いろんな宗教でもそうだけど、時間がたち、他の人らを経ることによって、最初の創始者が言ってたことと真逆になってたりするじゃない?偶像崇拝禁止を唱えていたのに、布教の効率性を求めて偶像崇拝するようになったりとか〜。

 で、実在した人間であるゴータマさんは、何をどう言ってたんでしょうね?
 …という疑問が多分心の何処かにあったんでしょうね〜。それで、この本が目に止まったと思われます。

 全部をちゃんと理解すべくしっかり読むのは大変だったので、斜め読みだったんですけど(←。)、なるほど、やっぱり仏教も時代と国や人を経ることによって、全然別物と言ってもイイくらいに改変されてしまってるんですね。
 多分、今の日本の仏教をゴータマさんが見たら、「…いや、これ仏教じゃナイデスヨネ?」ヽ(´Д`*≡*´Д`)丿ってなるんでしょうなぁ。

 この作者の方、物理学を専攻されていたのですが、昔から祖母に“北枕”を厳しく窘められたことへの反発心もあってか仏教を学んでいくことになります。
 そもそもこの“北枕”って概念が、発祥の地インドには無いそうです。それが何故日本に来て忌み嫌われるようになったかというと、要は当時の日本人の単なる勘違いだったと。
 インドでは、むしろ北向に良い意味があって、だからブッダは基本的に北枕で寝ていて、当然亡くなるときにも北枕だったわけで、そのシーンを読んだ日本人が「亡くなる時に北枕!これはよろしくない!」と誤解したと。

 また、ブッダ護摩(火を焚く儀式)や沐浴、葬儀の儀式なども否定しているのです。ええっ!そーだったの!?Σ(^_^;)ですよね。

 本文より引用させて頂きますと、
第一に、仏教は徹底して平等を説いた。
第二に、仏教は迷信やドグマや占いなどを徹底して排除した。
第三に、仏教は西洋的な論理観を解かなかった。


 カースト制度という厳しい身分差別が根を張るインドで、生まれや肌の色、そしてもちろん性別でも、差別されるべきではない、平等である、と。貴賎が決まるというのであれば、それは生まれなどではなく、その行い(業、カルマ)によって決まるのである、という考え方です。
 ビックリするほど先進的な思想ですよね。太古の昔、ゴータマさんがおっしゃってたのは、そういうことだったのです。

 そして、迷信などの排除というのは、非常に理知的合理的で、どんどん宗教のイメージから離れていきます。
 沐浴修行をしているバラモンカースト制度尊いとされる位)の男性を、身分の低い女性の仏法徒(仏教徒では正確ではない。)が「水を浴びれば解脱できるなら、ワニなどとうに解脱していますよね」というような内容の話をして、ハッとしたバラモンの男性が沐浴をやめ仏法徒になるエピソードなどもあるとか。

 読んでいて思ったのが、そもそもゴータマさんの言ってるのは宗教というより、思想であり哲学であるということです。
 それが、儒教の支配する中国を通る段階で、男尊女卑思想の影響を受けて改変され、さまざまな誤解や誤訳や、都合による改変やアピールしやすい儀式化を経て、仏教というものになっていったのだなぁと思いました。

 難解でよく分からないもののほうがありがたがられる、という傾向もありますから、例えば呪文のようにも聞こえる「般若波羅密多(はんにゃはらみつた)」は、パーリ語の「パンニャー・パーラミター」の音を漢字に当て字したもので、漢字だけ見るとおどろおどろしい気がしますが、パンニャーが「智慧」、パーラミタ−が「完成」、つまり単純に「智慧の完成」という意味でしかなかったわけです。そして原始仏教では、呪文自体を唱えていなかったみたいで。

 そして、宗教として形が整えられていく段階で、ブッダが神格化されていったと。
 元の文書をたどると、ふつうに気安く「ゴータマさん、ゴータマさん」と呼びかけられていて、「ブッダ」という呼び名も本来的にはゴータマさんのことのみ示す言葉ではなくて、法を覚れば誰でもブッダ、すなわち「目覚めた人」となることができる、というようなものだったそうです。

 ちなみに、日本で葬式仏教と言われるような現在の形が作られていったのは、平安時代に一部の僧が金銭的に苦しいのを打破しようと編み出した技術だったようで、それが定着していったもののようです。もともとの仏法は、葬儀となんの関連性もなかったわけなのです。

 もちろん、日本の歴史の中で仏教が育んだ美術や文学は素晴らしい物があるわけですが、本来の仏法そのものに関しては、かなり違う形で定着していったんだなぁと思いました。
 もしかしなくても、あらゆる宗教は、そうなのかもしれないですね。